カルテット

カルテット、最終回を観た。


ドラマの最終回は、なんとなく、まあこんな感じよね…という場合も多い。


でもこのドラマは違った。素直に感動したし、納得もした。


現実にはこんなことあるわけない、ってけなす人がいるけど、そういう人は、そもそもドラマ観るには向いてないかも。

ノンフィクションや橋田壽賀子ドラマなら大丈夫かも?



主役の4人が大好きだったので見始めたのだが、最初は、

あ、苦手な感じのドラマだ。

と思った。


めんどくさい性格とか、理屈っぽい言い回しやわかりづらい例え。


頭の回転が遅い私にはついていけん、と。


でも、それぞれのもつ隠し事や過去が気になって観てしまう。

そして、それがわかるたび、彼らのいろんな面を知るたび、好きになっていった。


みんな、完璧なんかじゃない、でもそんなみんなが大好きなんだと、別府君は言った。

ドーナツホールのないドーナツはドーナツじゃない、という例えで。

穴(欠点)あっての私たち。


そうなのだ。最初は面倒に感じた家森さんの、唐揚げに対するこだわりも、最後には、それは彼のキャラであり、次は何を言い出すのか楽しみにさえなってくる。


家森さんのこだわりを理解できるまきさん、理解できんと思いながらも、受け入れている感じの別府くん。

相変わらずめんどくさ!えーい!とわざと嫌がらせをするすずめちゃん。

嫌がらせに 革命なの? とツッコミながらも、そんなにいやがってないであろう家森さん。


なんか、こんな幸せな光景あるだろうか…と思ってしまった。


あと、私は、実は家森さんのめんどくささ、自分にもあるわ!と気づいたしね。だから最初苦手だったんだ。きっと。(笑)


こんな関係性があれば、人は、強く生きられる気がするなあ。


ダメなところを見せても、ケンカしても続いていく。たとえ犯罪者だとしても。


私が、犯罪者になったとして、今つきあいのある人で、つきあいが続く人なんているのかな。


親ですらあやうい。


うらやましいなあ、ドーナッツホール。


書いてて気づいたけど、

幸せな家庭で育った人には、わりと当たり前の光景なのかな?


両親がいて兄弟がいて、みんな性格ちがうから、いろいろもめて。でも仲良くて。


というか、結局、家族でも恋人でも友人でも、ダメな自分ごと受け止めてくれたら、人は、安心できるんだろうな。


そういう人がいないとつらい。

そして、つらい人は、多い気がする。


家族も社会も、ダメじゃない人を評価するからだ。当たり前の気もするが、最近、そんな社会の方がおかしいとも思う。


でも、そんな社会が当たり前だから、それに合わせないといけなくて、疲れる。

病んでくる。


私は、そんな社会が苦手でドロップアウトしかかってる。


もう戻りたくない。引きこもっていたい。

しかし、ずっとこのままってわけにもいかない。


とはいっても、今現在仕事もせず、カルテットを観て感動できる環境がある私は、どう考えても幸せでしかない。


が、その幸せは、相対的な幸せ。


他人からしたら、幸せよ、あなたは。

と言われる幸せ。


世の中もっと不幸な人は、いる。

それに比べてあなたは幸せ。


その意見はおそらく正しい。


でも、私自身、幸せかと聞かれたら、自信をもって幸せとは言えない。


主体的にはそう思えない。


カルテット観て感動してること自体、生きづらさ感じてる人間である証拠か。


そう考えたら、幸せか。


生きづらい人間だから、あのドラマに感動できたんだから。